父のことを思い出して時間割引率を感じる

f:id:juneberry-miyatomo:20210618223706j:plain父のことを思い出しました。

ちょっと変わっているな、と
子ども心に思っていましたが
健康のことに関しては、とても敏感で
毎日食べるものに、いつも気をつけている父でした。

もちろん、歯にもとても気を配っていました。

それが講じて、40代近隣の少し田舎の山林を買い
木を伐採して、根っこを抜いて開拓して
サラリーマンしながら、ずっと土日に畑をやって
「自分で野菜を作って、安全なものを食べることが贅沢や」
と言って、70歳くらいまでやっていました。

昨年末、癌で80歳でなくなりましたが
一定期間は、放射線治療で入院した後は
在宅、そして最後は緩和ケアに入ると決めていて
在宅での生活(階段の上り下りや入浴、食事など)が
徐々にしんどくなり自分で申告して緩和ケアに入り
結果的に、2週間ほどの利用でしたが
自分で食べられなかったのは、実質2日くらいでした。

本当に、最後まで健康でした。

ひょろっとしてて、スポーツというものはやっていなかったけど
健康に気を配っていて(子どもから見ると本当に変だった)
時間割引率の低い人だったな…と、今になって思えます。

そう言えば、健康以外についても
時間割引率の低い考え方してましたね。

地味だったけど
先のイメージが自分の中に、強烈にあったんだと思います。

それを小さい頃から見ていたので
健康に関しては、敏感に反応していますし
時間割引率が低い素地も、もらっているような気がします。

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父のこと#19 さいごに

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この投稿を使って、たくさんの思い出を整理できたことで、私にとっても心の整理ができ、とても良い父の最期を迎えられたと思っています。


思春期から口をきかなかったことや、父への許せない気持ちが漠然とあった中、末期の癌を宣告されて、戸惑っていた時に投稿し、思い出といっしょに、自分の心の中を紐解いていくと、自分でもいろいろなことがわかりました。

何が原因だったのかはよく分からないまま、とにかく嫌いだったこととや、事実を思い出してみれば、父なりに、関わってくれていたと言うことも、そのころの父の年齢を超えている今の年齢の私は、理解ができて、少しずつ溶けていったという感じです。 
人の気持ちって、わかっていても、できないことがたくさんあって、それを投稿することで、受け止められて、自分自身で受け入れられたことは、私にとってはとても大きなことでした。最期に感謝を伝えられた娘であったことは、自分自身でも、一番嬉しいことでした。 
この記事を書いていなければ、頭の中では分かっていても、行動ができずに意地を張ってしまって、心に蓋をしたまま、父を送ることになっていたと思っています。 
実家の家族は、感情を出さずに、とにかく「なかったことにしてしまう」癖があるので(涙だけではないですが)葬儀の時には、私が一番涙を流していたことで、蓋をせずに、私は、しっかりと父と向き合えたと思いました。 
 
次に残された母親の時に、同じようにできるかと言われると、今のままでは、まだしこりがあって、難しい気がします。その時には、またお力をお借りして、自分が後悔しないように、そして、送られる人が良かったと思える最期にしたいとは、考えています。
 
余命宣告された父が、私に言った言葉

「それでもまあ、いい人生やったわ」

それを思い出して、私もそんな風に言える人生を歩みたいと思いました。 
そして、もう一つ心に残っている言葉は

「あっちにはなんにも、持って行けへん」 
これは、どこかで分かっていたことだけれど、結局、死ぬときって、何も持って行けない。

じゃあ、それまでに何を大切にして、生活していけばいいんだろう。

でも、それもどこかで分かっていたことだなと思いました。 
言葉で表すと、自分自身が後悔しない人生、モノでは無くて、心が満たされる人生が…ということなのでしょうね。 
わかってはいるけれど、日常生活では忘れていることだな、と思いました。 
 
私の父は、最期に大切なことを教えてくれたと思っています。

私と本投稿を取り巻くすべてのご縁に、心より感謝を申し上げます。本当に、ありがとうございました。

父のこと#18 かたづけ

 

 父が亡くなって、忌引きがあるので

家の片付けと年末までにできる手続き等をしている。

兄弟3人でとにかく、書籍が多いのでその処分のための整理。

そして、父には変な癖があり、それは本の間にモノを挾むこと。

何だろうか、本の中に置いている? みたいな。

そこで、とりあえず、本をペラペラとしながら本棚2つを確かめる。

確かめたものは、後日、買い取りに来てもらう。ただ古い本も多いので値段がつくかどうかはどうでもよくて、処分していただく。

とにかく何でも挟んでいる。

昭和の宝くじから、テレフォンカード、旅行での乗車券

新聞の切り抜き、これが一番多かった。

そして、終わったクレジットカード

いろいろな写真

父が40代の給与明細、源泉徴収票

100円札ほか、お札がチラホラ。

 

とりあえず本棚2つから

現金は合計6万1千円(千円札は夏目漱石だった)と百円札、1円札、50銭、10銭、5銭、1銭札…。

 

やっぱり、確認しないともったえないね、と言うことに。

でも、なんで父はそんなことしてるのだろうか

まさか、ないとは思うが、今日の日をイメージしていたのだろうか。

でも、兄弟3人で昔の本をペラペラしながら、本の間から出てくる色々なものについて、昔の父を思い出しながら作業していた時間は、ちょっとタイムスリップして楽しかった。

 

 

父のこと#17 意外な答え合わせ

お通夜があった。

コロナ禍なので家族葬で、本当の身内だけで行った。

 

コロナ禍ということで

私たち兄弟とその子どもと、だけにしたかったが

父の兄弟とその子ども、あるいは父の兄弟の子どもが

来てくれた。

 

私にとっても、いとことの本当に久しぶりの再開でもあった。

こういう時期なので、本当にお茶も出さず

立ち話で、棺の中の父の顔を見ながら、いろいろ話してくれた。

 

その中で

 

「ボートに乗って池に落ちたことあったよね」

 

と言い出したいとこがいた。

 

私より6歳上のいとこ、いいおじさんになっている。

 

「そうそう、一緒に行ってて、落ちたよね。

その時の服覚えてるよ。」

 

その一つ下の妹が

「私は、あれから、ボートに怖くて乗れなくなって

こないだも、ボートに乗ることがあったけど

『昔、いとこがボートから落ちたのを見て怖いから乗らないねん』

って話してたところ。」

 

と5歳上のお姉さんだけど、とてもきれいで魅力的ないとこが言った。

 

「えっ?一緒に行ってた?」

それから、私は4人で行ってたのか、と根掘り葉掘り聞いていたが

その当時、2、3年生だったいとこも

 

「うーん、なんでそこへ行ったのかは覚えてない…」

 

と言って困っていた。

私が、しつこく尋ねたから不思議に感じたと思う。

 

そうだったんだ…。

 

私の記憶では、父と2人で行ったハイキングだと思っていたが

とりあえずは、4人いたようだ。

父が、いとこも連れてハイキングに行って

ボートにでも乗るか、と考えたのだろう。

 

今となってはわからないことだし、どうでもいい話だが

今になって、答え合わせができたこと、とても嬉しかった。

 

そして

私が池に落ちたことは、少なからず

みんなの気持ちの中に、大きなこととして残っていたんだと思った。

 

人が死んでしまうことは、とても悲しいことだが

お通夜やお葬式で集まることで、記憶をたどる作業は

歳を重ねるごとに重みを増している。

 

父の弟である叔父は

認知症が入ってきていたが、昔話をすると記憶がどんどん蘇るようだった。

「昔の記憶が出てきてるね」と叔母が驚いていた。

 

お通夜やお葬式で久しぶりの人に会えると

「おじさんが会わせてくれたんやね」とよく話してはいたが

 

今回は特に、コロナでお断りしているにもかかわらず

参列してくれて

その上、父を中心とした話が盛り上がり

長い長い立ち話をしてくれたことで

昔に、本当に子どもの頃にタイムスリップしたような気持ちになった。

 

今日は、父のお陰で

鮮やかな子どもの頃の映像が、話しながら目に浮かんだことが

とても嬉しかった。

 

 そして、「父のこと#2 冬のハイキング」の内容は

私の中で修正された。

 

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父のこと#16  旅立ち

 

昨日、父が旅立ちました。

昼過ぎに連絡があり、仕事の調整をして夕方駆けました。

緩和ケア病棟では

最後の延命措置を希望によってはしていないので

私がついた時には、酸素マスクをつけた父が眠っているように見えましたが、

少し前から脈はなかったようでした。

ただ、暖かくて、兄弟が揃ってからDr.が臨終を告げてもらえました。

何も機械をつけていないので、いつ脈が無くなったのかは

実際はっきりとはわかりませんが、私たち家族にとっては、とても暖かく見送れたように感じました。

在宅から緩和ケア病棟に入って、2週間ほどでしたが、とても良い最期を迎えられたと思っています。

 

 

父のこと#15 いくつになっても子ども

先週、父に会うと思っていたよりも元気だったので

ビデオ電話で通話した息子たちも

「声出てるやん」「元気やん」と言っていた。

私も「緩和ケア病棟に入って、元気になったな」と感じていた。

ただ、その裏には、惜しみない薬の投与があるのも知っている。

 

今日、母からLINEが来た。

「今日、看護師さんから 昨日より食事が取れなくなり又、痛み止も少しづつ多くなってきました。何時電話が入るかも知れませんのでと言うことでした。」

という内容だった。やっぱり、ショックだった。

はじめて涙が出た。

やっぱり潮の満ち引きって関係あるのかな、とも思った。

 

去年の今頃、父が入院して

検査して

1月ごろ、がんの告知を受けて

春ごろ、コロナが流行って

在宅で抗がん剤治療をして

夏ごろ、感謝の気持ちを手紙で伝えて

秋ごろは思いの外元気で

冬ごろ、緩和ケア病棟へ入って

先々週、家族でメッセージカード作って

先週も、お見舞いへ行って

と、本当にスモールステップできたので

実感があるようで

実際は1年間、実感を持っていなかったみたいだ。

 

ドキドキする。

結果はわかってるのに、ドキドキする。

もう話せないかと思うと、本当に悲しい

 

50代って、もっと大人だと思ってた。

いくつになっても、子どもやね…

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父のこと#14 コロナが落ち着いたら…って、

 

 

父の入っている緩和ケア病棟は、いつでも面会が可能で

家族にとっては、本来なら、とてもありがたいところだ。

 

仕事の帰りに、父のところへ寄った。

少し遠回りになるが、もともとが片道40キロ強を車で通勤しているので、あまり変わらない。

 

「1週間に1回寄ってもいいかも…」

と考えながら運転していた。

前回、会ったのは緩和ケアへ入って3日目くらいだったが

毎日、食べやすいものを食べて、毎食完食していると話してくれただけあり

身体にエネルギーが入って、元気になったように感じた。

 

実家の古い家とは違い

暖かいところで、無駄に動き回らないので体力の消耗もなく

顔を見ただけで、ここが過ごしやすいということが、よくわかった。

 

しかし安心したのも束の間、父は

「もう、コロナが落ち着くまでは来るな」

と言った。

 

父の性格は、恥ずかしくて逆のことを言う

なんてことはなく、父は本当に思ったことしか言わない。

そもそも空気が読めないから…。

 

それは

コロナの頃に出歩いて、私たちが、そして父が、コロナに感染するリスクを避けることを

最優先に考えているからだった。

 

私たちが、面会に来ると

その後すぐに看護師さんたちが丁寧に部屋中を除菌してくれるらしい。

それも、申し訳ないとのことだった。

 

父が、来るなと言うのは、理由はともあれ、父は本当に嫌なのだ。

だから

仕方がないけれど

「コロナがおさまるまでは、行かない」

と私は言った。

 

それは、自己満足で私たちが面会へ行くことよりも

父の気持ちを最優先にすることが、ベストだと判断したからだった。

 

ただ、迷いはあった。

(本当にそれでいいのか。)

(コロナが落ち着くのって、いつ?)

(意味わかってる?)

 

でも、父がやりたいように、したらいいと思った。

本人が嫌がることを自己満足でやっているようではダメだとも思うが…実際は複雑。

 

そして、合理的なことが大好きな父は

「必要なものは、ここへ宅急便で送ってくれ」

と言った。

 

(それはそうなんだけど…。)

 

父は、実家の母にも

「来るな」

と言っているらしい。宅急便で送るようにと。

 

そして、携帯ラジオを母に頼んでいて

それがもうすぐ送られてくるらしい。

徹底している。本当に…。

 

思いがけず、最後の面会になるかも知れなくなってしまい

とりあえず、息子たちと会話をさせたいと思い、LINEのビデオ通話をした。

 

息子たちはまだ家に帰っている時間ではなく

移動している時間帯だとは思ったが

どこかでビデオ通話できる環境を作って欲しいと伝え

しばらくして長男から連絡があった。

 

1年間浪人時代を居候させてもらった長男との会話は

半分照れたような父が、英語で話す。

ギャグではなく、英語好きな父だが、長男は英語は嫌いで噛み合わない。

その噛み合わなさも楽天的な長男は、吹き飛ばす会話ができる。

とにかく、長男が今年の1月ごろまでお世話になっていたなんて、嘘みたいな話だ。

 

しばらくすると、次男からも連絡があり

乗り継ぎ駅ホームから話すが

残念ながら、周りがうるさすぎてあまり聞こえないようだった。

仕方がない。

こちらも聞こえないので、話が噛み合わなかったが、とりあえず話ができてよかった。

 

これは私の自己満足。

 

こないだ会った時に渡した、うちの家族からのメッセージは

ちゃんと読んでくれていたようで、嬉しかった。

やはりそう言ったわかりやすいメッセージがよかったのだと思った。

だから、会いには行かないが

宅急便も味気ないので、ナースステーションへ週1回くらい

簡単な手紙でも持っていこうかと考えている。

手紙でなくてもいい、感謝が伝わるなにかを…。

 

 

「コロナが落ち着いたら…」

父はどう思って言ったのだろうか。

父のこと#13 緩和ケア病棟

緩和ケア病棟に、先週から入り、初めてお見舞いに行った。

面会は1日中自由。1家族3人まで、15分まで。

ナースステーション前の入り口で、検温を済ませて部屋を教えてもらう。

妹からの情報では、痩せていたと聞いていたが、やっぱり痩せていた。それよりも声のボリュームがない。活気もないと感じた。

癌になる以前、私の小さい頃から、感染症にはとても敏感で、私たち子どもが風邪をひくと、父は近づかないようにしていた。

部屋での会話のほとんどは

パンデミックやから、出歩かんほうがいい」

という内容。少し認知も低下しているのかも、それはわからない。

私たちへの気遣いか、自分へ流行るから、という遠回しの言葉なのかはわからないが、とにかく感染症はイヤだということだけがよく分かったので

私と夫とは、家族で作った、少し地味でおしゃれな色紙のようなものに書いたメッセージだけを、サッと渡して部屋を出た。全部で2、3分くらいだった。

「あとで見せてもらうわ」

そう言っていた。

 

体調が悪くなって入院したのが、去年の12月下旬。そこから1年、余命と言われた月日よりは少し長いようだ。病室での

「明日、誕生日やな」

という私の問いかけに、父が

「2ヶ月は得している」

みたいなことを言っていたが、声が聞き取りにくくわからなかったが、相槌を打った。そうなのか。父は、明日で80歳になる。

帰りの車中で、いろいろ考えた。後悔の無いようにと思っていろいろやってきたつもりだったが、私にできることは、この1年で出来たのだろうか。

何より、父への感謝を伝えるということが、私の一番の目的だった。

夏ごろに手紙を書いたり、ちょっとした時に話たり、最後には家族からのメッセージ。これで伝わっていてほしいと思う。自己満足で終わっていないことを願う。

今日の父の状態を見て、築年数の古い実家で、よく、先週まで過ごして来れたなと思った。食事も特に配慮のない同じものを食べていただろうし、バリアフリーではないし、階段の上り下りもあるし…。

食べ物があまり摂取できていなかったのだろうと勝手に思っている。だから、痩せてきていた。トイレに行くのも遠いし、部屋ごとに気温が違って寒かっただろう。私の口出しできるところではない。

父はデイサービスも利用したことがないので、今、緩和ケア病棟に入院して、看護師さんが優しく話を聞いてくれることで、心が開放されればいい、と思っている。自宅ではなく、病棟ということでお互いに気持ちの良い関係で、何の心配もなく過ごせたらいい、と思った。

今日、短い面会をしてみて、緩和ケア病棟へ入り安心したことで、父の張っていた気が、フッと抜けているように感じている。

それがいいことなのか、どうなのかはわからないが

父が心地よければいいと思った。

あと、感染症を怖がっている父に、高校生と大学生の息子を会わせるのは、難しいと感じた。

あと、月の満ち欠けを調べてみた。今月は、15日が新月で29日が満月…。