レジリエンスが高まって、想定外の人生を楽しく送る

すべて上手くいく人生なんて、なかなかないですよね。

側から見たら、ピンとこないかも知れないけれど
「あの時、こうなりたかったな」とか
「もっとこうしていれば…」とか
私にも、いろいろな思いがあります。

でも
「もし、戻れるならどの時点から、やり直したい?」
と尋ねられても

上手くいかなかったこともあって、今がある…

と思えているので
このままでいい、と思います。

50年も生きていると、それなりに何度も大きな分岐点があって

その時には
メンタルがやられるくらい悩んだり、考えたりしました。

そして、公私ともに20代ではまったく想像もしてなかった世界に
今は、身を置いていて
「よく、ここまで繋がったなぁ」と
思い通りにいかないからこその、人生を感じています。

私はこれからも
さらに、見た目にも違う世界へ行きたいと思っているけれど

この先、思っているようにはいかなくて
今、想像もしていない世界に、足を踏み入れているかも知れない…
なんて考えると、ワクワクしてしまいます。

結局、いろいろあって
はじめに思ったところとは、違うところにたどり着いていて
私なりの「塞翁が馬」を、すごく感じているので
本当に、すごく好きな言葉です。

でも、はじめの落ち込みは一番しんどかったです。
経験がないので「塞翁が馬」とも思えなかったですし
沼の中にいるような感覚だったので。

でも、そんなことを何度か、経験をしてくると
逆境が来ても、エンドレスじゃないし
悪いことばかり続かない、と思えるようになってきました。

私のレジリエンスが高まって
物ごとを、受け入れられる余裕ができたのだと思っています。

やなぎのようにしなやかな心

私が、証券会社へ入った1993年当時は
バブルが弾けてしまっていたので
よく、裁判という言葉を聞きました。
「知らないうちに損をしていた」とか
「そんな説明聞いてない」ということだと思います。
(たぶん。)

幸い私は、関わったとこはないのですが
そういう環境にいると
テレビの中だけでなくて、裁判ってあるものなんだ…と知りました。

そして、真っ当な仕事をしていれば、怖くない。

そうでなければ(説明してなかったり、誤魔化していたりすると)
少なくとも裁判が終わるまでは、人事部付きに。
「負ける裁判」と会社が判断すれば、こちらに落ち度がるということで
すぐに、どこかへ隔離される…みたいなイメージでした。
30年くらい前の話です。

その経験から、自分では体験してはいないのですが
「裁判」という言葉への抵抗はなくなっているようです。

そして、どんな仕事をしていいても、いつの間にか
裁判になったときに説明がつくか、記録はしているか
という視点で、物ごとを見るようになっていました。

新卒で入った会社で、経験したことは
ひよこが、殻を破って外界を見た時のように
すごく印象深くて、染み付いています。

その頃、一つ上の先輩が
どんなトラブルが起こっても、クレームが来ても
柳のように、とてもしなやかでした。
愚痴は言うけれど、折れません。

その当時の私は、羨ましいけど
自分の意見がないように写りました。
(信念や意見は持っておられましたが、それはそれとしていたようです)

でも、今なら「柳のようなしなやかさ」って
生きていく中ですごく大切だったんだな、と思えます。

次男が中学生の頃
何の話か忘れましたが、私がちょっと落ち込んでいる時に
LINEで

「しなやかな心」

と返してきました。
どこで学んだのか、今の子はそう言う言葉が当たり前なのか
親の私が、目から鱗でした。
今の時代の子どもたちに対して、レジリエンスという発想は
いろんなところで、使われているように感じました。

過集中から視点を変えて…

私が、メンタルでやられた時を思い起こしてみると
やっぱり、1つのことに過集中していたという
共通点があると思いました。

独身の頃なら、会社のことを100%
専業主婦では、子育て100%

もうそれしかない、というような感覚が
私の中に、あったと思います。

1つのことに過集中しすぎると
それが、ちょっとでも上手くいかなかった時や
自分の力では、どうしようもないことが起こった時に
追い詰められて、メンタルがやられていくんだな…と。

日常生活では、入塾してコミュに投稿したり
SNSの発信するようになったりして
仕事への過集中が、なくなったと思います。

時間的には、仕事が大きな時間を占めているのですが
私の心の中では、仕事が占める割合がかなり減っています。
(それが、心地いい)

仕事の時間は、しっかりと仕事はしていますが
今はどこか客観的で、引いた感じで仕事を捉えている自分がいて
以前と比べると「流している」ような感じがあります。

自分で言うのも、なんですが
元が真面目なので「流している」と言っても
周りから見たら、全然流していないと思います。

ここ4、5年は、仕事がハードになりました。
でも、今までのシングルフォーカスではなく
視点が分散されたことが

大変な中にも、サクサク仕事ができるようになった
理由だと、思っています。

以前の私なら、真正面から向き合いすぎて
入りすぎて、さらに思いが強すぎて
いろいろな変化や責任に、耐えきれなくて
しんどくなっていただろうな、と思っています。

肩の力を抜いてみる、というのが
正しいのかどうかわからないですが
同じことをしていても、こんなに気持ちが楽になるんだなと思います。

でも、強くなったと言うより
いろんな世界のことを知って、必要以上に恐れなくなった
という感じが強いです。

聴いてほしいではなく、共感してほしい…

メンタル系の話に関して
私は、共感してほしいと思うのですが
友人を、ぐるっと巡らせましたが
メンタルでやられている時に、話そうと思える人がいませんでした…

後になれば「あの時は…」と話せますが
渦中では、話そうと思える人がいない。

これが、私のしんどさなのかも知れないですね。
(ここ最近はメンタルでやられていないので
自分でちゃんと回避できているのかも知れないですが)

毎日の投稿では、すごく自己開示できているのですが
これは、少しずついろいろなことを投稿しながら
自分を知ってもらったり
関心がなければ、スルーしてもらったりしながら
気楽に、ここまできています。

投稿は、共感してもらえなくてもいいと言う思いがあるので
本当に、気楽に書けています。

実際の生活になると、メンタルの話でなくても
ここまでの時間をかけて伝えられる友人は
現実的にいないですね。

普段の悩みなら、とても頼れる友人はいます。
それが、メンタルとなると(私の中で線引きがあるみたい)
重いのと、共感してもらえないと思ってしまう…のと。

それぞれは、考え方が違うので
聴いてはもらえるけど、なかなか共感してもらえない。
そもそも、共感を求めること自体が
違っているのかも知れない、と今、思いました。

もちろん聴いてもらう、何かしら力にはなってくれます。
とても心強いです。

以前、メンタルが弱っている時に話たら

「私には、まったくわからへんけど…」

と言われましたが
翌日に「お腹温めたらいいらしいよ」と言って

手作りの可愛いカイロをくれました。
中に、干したトウモロコシが入っていて
外は可愛い花柄生地で、夜に縫ってくれたと思うと
彼女のその気持ちが、嬉しかったです。

普段、親しく付き合っている友人たちは
とても刺激的で、一緒にいて楽しいし、学びもたくさんあるけど
メンタルの部分での、思考は違います。

メンタル弱めの日本人が多い中
そう言えば、友人の多くはメンタル強めです。
10年以上の、付き合いがありますが
びっくりするくらい周りを気にしないし、まず「勝ち」にいく…
体育会系です。

体育会系の人すべてが、メンタル強めではないと思いますが
私が、そこから学ぶことも多いです。

お互いがお互いに、無いものをもっています。
それを、忘れていました。

問題を解決することも、目的の一つだけど
私は、共感してほしいと思う気持ちの方が強いんだ…
とわかって納得できました。

できないことはできない。私のできることをやるだけ…

確かに
私が大きく、メンタルをやられている時は
キャパシティを超えている時だったな…と思います。
90年代、金融機関の倒産が続き業界全体が沈んでいた時
顧客からの非難ばかりの中、証券会社で営業をしていくこと。

突然の早産の後の子育て、睡眠不足、今後の不安。

私の中で大きな波だったと思います。
どうしようもできず、キャパシティを超えていました。

どうしようもないことは、どうしようもないと
今では思えるのですが
どうしようもないことと闘っていました。

そして、メンタルがやられている時には
それを、あまり公にできない。

同じ経験をしていないと、その気持ちがわからないだろうと思って
共有しようという気持ちも、もっていなかったです。

いっそのこと、何かの依存症になりたい、と思ったことを覚えています。
なりたい、と思って依存症なるものでもなく
私には、依存症はあまり向かないようです。

少し話が重くなってしまいました。

心臓が、バクバクすることに対して
そのキャパシティを広げていくこと、有効だと思います。

私は人前が苦手でしたが
今は、何も思わないです。
キャパシティが広がりました。
心臓が、バクバクすることも無くなりました。

でも、性格的には目立ちたくないので
なるべくは、前に出ないようにはしたいです。
いつまで経っても、人の核の部分に
性格ってあるんだな、と思います。

いつ頃からかか
できることしかできない、私のできることをする…
という思いが、強くなってきました。

「頑張って」というのは憚られますが

「自分のできることを頑張ってやる。 以上」

という感じの考え方に、なってきて
限界を知るというか、できる範囲でしかできないというか
それを、やるだけ…と思うと
いつの間にか、気持ち的に楽になりました。

人と比べるのではなくて
自分のキャパシティを受け入れた、という感じでしょうか。

投稿していると、そう言えば…と思い起こして
いろんなことが見える化されて
私の中で整理されていく感じが好きです。

心の底に蓋をしていた子どものころ

大人になるまで、メンタルは強い方だと思っていました。
と言うのも、あまり感情に左右されないし
あまり、悲しいと言う気持ちもなかったですし
泣くこともなかったからです。

嫌なことがあった時には
心の底の方に入れて蓋をする

これが、小さい頃からやってきたことです。
たまに、つらい出来事が上がってきそうになると
ぎゅーっと下に押し込める感じを持っていました。

それで、何にも感じないようにしていたので
小中学生くらいは、きっと
メンタルが強い人だと、思われていました。

今考えると
「言える人がいなかったんだな…」と。
小学生のフォルムをイメージすると
小さいのに、メンタル強く行こうと思ってたことに
自分でも、心が締め付けられる感じがあります。

何も感じないことが、メンタルを強くいられる
一番の方法だと、思っていたんです。

大人になっていくにつれて
弱い自分も受け入れながら、強く生きることを考えるようになりました。
なかったことに、しているだけでは
自分が、前に進めないことが多いと思うようになってきたからです。

いろいろ、やってみました。
心のあり方、自分の軸となるものを持って
心を強くしていこうと、思いました。
斎藤一人さんや、渡辺和子さん、梅原猛さんなど
CDを何度も何度も聴いて
その他、ちょっとずついろんな人の考えを知って
ちょっと、宗教的な感じですが
メンタルが、ぐらつかないようになってきたと思います。

それとは、矛盾するのですが
歳とともに、ある部分
メンタルが弱くなってきたな、とも思います。

キツイことを言われても、気にしなくなってきたかと思うと
些細な言葉で、すごくグサッときたり…
子どもの頃の方が強かったな、と思うこともあります。

いろいろなことを、弾くのではなくて
受け止めたり、感じたりすることで
心を開きすぎているのかも知れないです。

結局はやっぱり
メンタル弱いんでしょうね。